ある土曜日、駅の売店の会社の偉い人が慌てるようにやって来て、私に言った。
「M駅の売店に、今日と明日、助っ人に行ってくれんか?今日入るはずやった者が病気で倒れてしもたんや!」
何も知らない私は二つ返事で快諾したが、一部始終を見ていたジィちゃんが、
「M駅か。“馬の店”やな。最前線や。」
と言った。
私はジィちゃんに店を任せてM駅に向かおうとすると、ジィちゃんは手を振りながら、
「死ぬなよ~。」
と言った。
ジィちゃんの言葉の意味を、私は後で知ることになる。
M駅の西口を出ると、JRA(日本中央競馬会)の大きなビルがある。
丁度、正午にM駅に到着した私は、M駅の売店を仕切っているA女史に、
「お昼は食べた?食べてなかったら、今食べてきて!しっかり食べてね!1時に戻ってきて!」
と言われた。
昼食を摂って店に戻ると、A女史から「戦略」を聴かされた。
「…(競馬)出走前とレース終了後がヤマ場。今から3時まで、「大スポ」と競馬新聞類がよく出るから、品切れさせないように。3時になったら、ぴったり客足が止むから。その後4時頃からまた大勢お客さんが来るからね。その時はビールとワンカップと缶コーヒーを切らさない。…」
A女史の気合の入り方から、これはタダゴトでは無い、と察知した。
午後2時前、ちらほらと客が増え始める。
ああ、これは言われたとおり、なかなか忙しい店だ、と思った。
更にその思いをはるかに上回る、午後2時過ぎ。
私のいる売店の真正面に改札があり、更にその奥に、まるでタカラヅカのレビューの時に使う階段のように、ホームへとつながる階段が見える。
昼の2時を回ったある瞬間から、その階段は異様なレビューのように見える。
役者は絢爛に着飾ったタカラジェンヌとは真逆だが、普段着の中高年のオジさん達。
ジャンパー姿、ハンティング帽、地味なのか派手なのかわからないシャツ、渋い面構え、くたびれた革靴、若しくはくたびれたスニーカー、ポケットに手を突っ込み、或いは禁煙の構内であるにも関わらずくわえタバコで…。
もの凄い人数のオジさんたちが、もの凄い勢いで改札をくぐりぬけ、もの凄い勢いで私達のいる売店に、途切れること無く押し寄せてくる。
ブック、エイト、大スポ、ブック、研究、タバコ、コーヒー、ブック、大スポ、フジ、タバコ、ブック、エイト…
売れる商品はほぼ同じ。
つり銭を間違えないよう、最初は頭を使っていたが、次第に体が勝手に動くようになり、指先の感覚だけでつり銭を渡せるようになる。
競馬新聞を何度も補充し、缶コーヒーも何度も温めた。
これだけの人数が狭い店舗を取り囲んでいると、スキを見てリフター(万引き)にも気をつけなければならない。
全く気を抜けない。
時間の感覚が全く無くなり、無我の境地に至る頃、客足がぴったりと止んだ。
「もうじき出走だわ。今のうちに缶ビールと缶コーヒーを補充しておいて。あ、ワンカップも。」
と、A女史。
やってきた夕刊と、翌日のレースの競馬新聞を補充し、一息ついたのも束の間。
「もうそろそろ来るよ。」
A女史の言葉どおり、午後4時前、オジさん達が悲喜こもごもの足取りで戻ってきた。
ビール、ビール、チューハイ、ビール、ビール、ワンカップ、ビール、ビール、缶コーヒー、ビール、ワンカップ…
この人波は、いつまで経っても途切れることが無かった。
つり銭を渡すと、オジさんが大きな声で、
「あ~、負けた負けた~。次は明日や~。頑張るで~!」
「勝ったヤツがこんなとこで呑むかいな!皆で呑みに繰り出しよるわ!!!」
ある人は、買った缶ビールで乾杯をし、ある人は物言わず黙ったままグビグビとビールを飲み干す。
夕方を過ぎ、宵の口という頃になって、ようやく駅構内はシンと静まり返る。
柱にもたれかかり、いつまでもクダを巻いているオジさんもいる。
営業妨害なので、駅員に告げ口して、このオジさんを退かしてもらう。
ようやく閉店の時間になり、A女史は私に言った。
「今日はありがとう。お疲れ様。明日も頑張ってね。明日は私休みだけど、他の人が来るから…。」
…!
そうだ。翌日、日曜日のレースもあるのだ…。
意気消沈したように私も帰路についた。
いいや、私は助っ人でこの店に来ただけだし、明日さえ乗り切れば、と。
勿論、翌日も同じ光景が繰り返され、私は散々くたびれ果てたものだ。
二度とこの“馬の店”には行きたくない!と思ったが、その後私はしばしば、土日のM駅にかり出された。
この経験のお陰で、私はその後、幾分修羅場に強い人間になったし、ポケットに入った小銭を、指の感覚だけで計算できる能力が備わった。
紙に計算式などが書いてあっても、その回答を出すのは遅いが、ホンモノのゼニを掴ませたら私は早い。